2020年10月 4日 バイリンガル礼拝ハレルヤ!主の素晴らしい御名をほめたたえます。本日の礼拝は、教会堂での礼拝とインターネットでのライブ配信という形で行われました。賛美リードならびに司会は、榎いずみ先生がご担当くださいました。本日の礼拝には、BC州から番匠ご夫妻が集ってくださいました。共に主の素晴らしい御名を賛美し、御言葉を英語と日本語で味わうことができましたこと、また聖餐の恵みに与れましたことを感謝いたします。本日の礼拝メッセージは、「すべてに有益な服(The clothe that is beneficial to all)」と題して榎先生が御言葉を取り次いでくださいました。まず私たちは以下の御言葉を音読いたしました。『俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばです。』(テモテへの手紙第一4章7節~9節)親の影響力というものは、子どもにとって大きなものです。年齢を問わず、私たちはたとえ不完全なものであっても、“親”は子供にとっての良い模範であることが求められます。今日参照している聖書箇所で、パウロが弟子テモテに求めていることは、決して“完璧であれ”という教えではなく、“教会のなかで、キリストに対して従順でありなさい。良い模範となるように歩みなさい”という事です。この命令には、パウロがテモテに宛てた手紙の中に記されているこの部分が土台となっています。『この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰から出て来る愛を、目標としています。』(第一テモテ 1章5節)信仰から生まれる愛で教会が満たされることを目標とし、私たちがキリストに対してどのように生きるか、ということが、私たちの“影響力”と言えます。パウロは“神の愛に満たされて生きる”という事に対して、確固たる自信を持っていました。それゆえ、ピリピの教会の信徒たちに向けてこのように書き綴ったのです。『兄弟たち。私に倣うものとなってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。』(ピリピ書 3章17節)パウロは、キリストに敵対する人々が教会内に存在することを明らかにし、“模範(モデル)としての私をみならって歩んでほしい”と記しています。そして『私たちの国籍は天にあります。(20節)』と彼らを励ましています。イギリスの聖書学者N.T.ライト氏は、その著書の中でこのように言っています。「“天に国籍がある”とは、私たちが天の影響力のもとに置かれているという事である。」天の影響力のもとに置かれている私たちは、天の国籍を持つ者としての生き方を示していくことが大切です。『しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。// こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。』(ガラテヤ書 4章26節//31節)“天のエルサレムのもとに私たちは置かれている”とパウロ自身もガラテアの教会に対して語っています。イエス・キリストを信じる私たちクリスチャンがなぜ変えられて行くのかと言えば、それは私たちが天の影響力のもとに置かれているからです。そして、聖霊様が私たちの人生に働いてくださり、今まで出来ないと思っていたことが出来るようになっていきます。私たちは良きにつけ悪しきにつけ、親に似て来るものです。それは、子どもが親に似て来るのは、子どもが親の影響力のもとに置かれているからです。私たちは誰(神、あるいはその他のもの)の影響力のもとに置かれているか、今一度考えていきましょう。『俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。』(第一テモテ 4章7節)私たちが“体を鍛える”理由は健康のために、あるいは自分のセルフイメージを向上させるため、または自分に自信をつけるため、など様々なことが挙げられるでしょう。パウロは、これらのことは“いくらか”有益ではあるがすべてではないと言っています。それでは、パウロのいう「敬虔のために鍛える」とはどういうことでしょうか。「鍛錬する」という英単語trainとは、元来ギリシャ語で“exercise naked”という意味を持ちます。つまり、私たちが”裸になって(=脱ぎ捨てて)取り組む“というニュアンスがあります。“霊的に鍛錬する”とは、もっと祈ること/もっと聖書を読むこと、ということに留まらず、私たちが全てを脱ぎ捨てて“裸になって”御前にでる、ということになります。パウロはこの言葉を2000年ほど前に用いて、人々に説いていました。この言葉は聖書の他の部分にも見ることができます。『私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。』(へブル書 12章1節)神の御前ですべてを捨てて“裸”になった私たちは、何をまとえばいいのでしょうか。それは、『今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔(第一テモテ 4章8節)』です。“いのちが約束されている敬虔”とはなんでしょうか。それは、“私たちに与えられたキリストにあるいのちの約束”です。『神のみこころにより、またキリスト・イエスにあるいのちの約束にしたがって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから』(第二テモテ 1章1節)4章8節の部分にある“敬虔”という言葉は、リビング・バイブル訳では、このように書かれています。「体の訓練も大いにけっこうですが、霊の訓練はさらに大切であり、あらゆる行動の原動力になるのです。ですから、あなたは霊の訓練に励み、もっとすぐれたクリスチャンを目指しなさい。そうすることは、今の地上の生活のためだけでなく、未来の生活にも役立つからです。」私たちから出て来るものは、そのいくらかは有益ではあるけれども、それは“すべてではない”とパウロは語っています。キリストのために生き、この方に向かい、この方にあって生きていくことは “すべてに有益”となるいのちの約束ですから、疑うことなくイエス様を信じていきましょう。イエス様はまことなる真実なお方であるので、私たちは確信に立って、恐れることなく大胆にイエス・キリストの福音を語ることが出来るのです。ここに、私たちに約束された聖書の希望があります。義の鍛錬を知る時、私たちは神の前に全てを捨てて、本物の自分をさらけ出すことができます。神が私たちに何かを与えてくださる時、私たちは必ず立ち止まり神の前に立ちましょう。私たちが神を信じ、御前に立ち止まり御前に進み出る時、このような約束が与えられます。『イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』(使徒行伝 2章38節)『彼らは聖なるもののきよめの規定どおりにいたしませんでしたが、心を定めて神を、彼らの父祖の神、主を求めています。』(歴代誌第二 30章19節)『ヨブよ、これに耳を傾けよ。神の奇しいみわざを、立ち止まって考えよ。』(ヨブ記 37章14節)義の鍛錬として、第一テモテ4章8節の御言葉の約束を常に心に留めましょう。霊的に“裸”となって、神の御前に進み出ましょう。私たちがまとっている汚い罪の衣は、神が覆ってくださるので、私たちは恐れることはありません。肉の性質を持つ私たちは、「今、自分が欲しているもの」「今、自分がやりたいこと」を選択してしまう傾向が多々あります。そのような弱い私たちを神はどれほど忍耐を持って見ておられるか、今一度考えてみましょう。神は常に、私たちのために“よいもの”を備えてくださいます。罪の中にいる私たちには、先になにが起こるかを見ることができません。すべてをおさめすべてを知っておられる神が用意してくださる「最適な選択」が何であるか、日々祈りを通して伺っていきましょう。そしていのちへと導いてくださる敬虔を学んでいきましょう。『しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。』(ローマ書 5章8節)私たちがまだ罪のただ中にあった時、キリストは死んでくださったのです。ここに“先取りの愛”あることを理解しましょう、このお方が約束してくださる“永遠の敬虔”は、私たちが生きるうえですべてに対して有益なのです。皆様の祝福をお祈りいたします。

2020年7月19日

バイリンガル礼拝ハレルヤ!主の素晴らしい御名をほめたたえます。本日の礼拝は、教会堂での礼拝とインターネットでのライブ配信という形で行われました。賛美リードならびに司会は、榎いずみ先生がご担当くださいました。主の素晴らしい御名を賛美し、御言葉を英語と日本語で味わうことができました恵みを感謝いたします。本日の礼拝メッセージは、「ベタニヤの奇跡“The Miracle at the Village of Bethany”」というタイトルで榎先生が御言葉を取り次いでくださいました。まず私たちは以下の御言葉を音読いたしました。『さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリアとその姉妹マルタとの村の出で、べタニヤの人であった。このマリヤは、主の香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。そこで姉妹たちは、イエスの所に使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打にしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「私たちの友ラザロは眠っています。しかし、私は彼を眠りからさましに行くのです。」』(ヨハネの福音書11章1節~11節)この部分は、“ラザロの復活”と呼ばれる箇所です。自分たちの兄弟ラザロが瀕死の状態に置かれ、マルタとマリヤは使いを送ってイエス様に来てくれるように頼みます。イエス様は、その知らせを受けてから二日間現在おられる場所に留まっておられ、その後でラザロの所に行かれ、そしてラザロの復活の奇跡を行われる、という話です。時に私たちは、イエス様の行動がまるで計画性の無いように感じることがあります。ラザロが死にそうだという連絡を受け取りながら、なぜイエス様は二日間もその場に滞在して、すぐに彼のもとに行かれなかったのでしょうか。また、一人の女性を通して福音の伝道が進んでいくということが記されたヨハネの福音書4章でも、サマリヤの人々に懇願されてイエス様の一行はその地に二日間滞在されたと書かれています。ヨハネは今日の参照箇所において、“イエス様は、時と場所を選んで奇跡を行われる”という事を意図的に記しています。7節に入り、イエス様は「もう一度ユダヤに行こう」と仰いますが、弟子たちは強く反対します。なぜなら、ベタニアはエルサレムから3キロほどの距離にあり、イエス様の噂を聞きつけたユダヤ人たちがすぐさまやって来て、宮きよめの時に神殿を歩いておられた時と同じようにイエス様を石打ちにするのではないかと危惧したからです。この時、イエス様がベタニアと言う場所を用いて奇跡を行われるという事を、弟子たちは気づいていませんでした。それではなぜ奇跡の場所としてベタニアが選ばれたのでしょうか。その理由について考えてみます。理由1:イエス様とマリア・マルタ姉妹との関係性この奇跡は、イエス様が十字架に架かられる1週間前に起こったことです。マリアとマルタという姉妹は、ルカの福音書10章に書かれています。『さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にはマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわってみことばに聞き入っていた。』(ルカ書10章38節~39節)イエス様ご一行をおもてなしするために、一人台所で忙しく働く姉マルタと、そしてイエス様の足もとに座りイエス様の御言葉に耳をしっかりと傾けている妹マリヤの様子が書かれています。聖書の中に記されている女性の中でも、このマリヤは“イエス様の心を喜ばせた数少ない女性”の一人です。彼女は、イエス様の御声を聞くことに長けていた女性です。当時、イエス様はいわば“時の人”でした。多くの場所で人々に福音を伝え、たくさんの癒しの奇跡を成し、多くの人々がイエス様を信じ、誰しもイエス様のもとに来たいと思っていたことでしょう。このような方を、マリアとマルタの姉妹は“個人的に呼び寄せる”ことのできる関係にあったのです。『そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」』(ヨハネ書11章3節)理由2:“べタニヤ”という場所べタニヤという言葉には、「貧しい/苦しい」という意味があります。マタイ書5章3節から始まる“山上の垂訓”は、この御言葉で始まります。『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。』ここに書かれている“貧しい人”という言葉は、「貧困状態にある人」という意味ではありません。これは、“私は弱いものであり、私には神が必要であると認識している人”、また“霊的に渇いて、空っぽの状態(Poor in Spirit)にある人”という意味です。べタニヤには神に対して渇く者たちが居て、その場所にイエス様は来られました。神は、神を求める者たちの所に必ず来てくださるという事を覚えましょう。マリアとマルタの姉妹は、兄弟ラザロの身に起こった問題を解決できるのはイエス様しかいないと思っていました。彼女たちの心の中には「こうであってほしい」「この時にこのようになってほしい」という期待がありました。しかし、彼女たちが期待する場所/時/方法によっては、ラザロの救いは与えられませんでした。期待1:方法この姉妹が期待していたのはラザロの病気の回復でした。しかし、イエス様はラザロの“復活”を成し遂げられました。期待2:時マルタもマリヤも口々にこう言います。『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟はしななかったでしょうに。』(ヨハネ書11節21節、32節)しかし、イエス様の奇跡は“イエス様の時”に成されるのです。イエス様は決して遅れたわけではなく、その“時”を待っておられたのです。(6節)期待3:場所マルタとマリヤは、“病床にある”ラザロの回復を願っていました。しかしイエス様は、ラザロを「墓」からよみがえらせました。“墓”は人間の無力さを象徴するものです。このように、神様は私たちの期待をはるかに超えて施される方であるという事を覚えましょう。キリストを自らの救い主として受け入れる私たち信仰者の希望は、ここにあります。『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。』(4節)“死”は、肉体だけのものではありません。死さえも神の栄光のためのものとされるのならば、私たちがいま立ち向かっている試練も必ず神の栄光を現すためのものとされていきます。ここで一つ疑問が出てきます。イエス様はマルタ、マリヤ、ラザロを愛しておられました。そして愛するラザロが、今まさに瀕死の状態に置かれていました。『あなたが愛している者が病気です。』(3節)『イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。』(5節)それなのになぜ、イエス様はすぐにラザロのもとへと急がれなかったのでしょうか。イエス様は「それは、神の栄光があらわれるためである」と仰っています。KJV欽定聖書では、このように書かれています。“When he had heard therefore that he was sick, he abode two days still in the same place where he was.”愛しているがゆえに、ラザロのもとへすぐには行かなかったというのです。ここで言う“イエス様の愛”とはどのような愛でしょうか。私たちはここで深く考えてみたいと思います。ヨハネ書11章35節には、この一文が記されています。『イエスは涙を流された。』この涙は、単なる感傷的な涙ではありません。イエス様は、ご自分の愛する神の属する者が、神から分離させられたことに対して涙を流されたのです。イエス様は“死を通して神の栄光があらわされる”(4節)と仰いました。つまり神の栄光をあらわすためには、死を通らなければならないのです。原罪のゆえに、本来死ななければいけない私たちを、主は十字架での自らの死をもって私たちを贖ってくださいました。『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔と言う、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした』(へブル書2章14節~15節)神の時/場所/方法は、時に私たちが理解できないことがあります。しかし主に渇く者たちのもとに、主は必ず来てくださいます。私たちは神の御言葉は必ず成就し、主が私たちに勝利を得させてくださるという事を信じる信仰に堅く立ちましょう。皆様の祝福をお祈りいたします。

2020年7月12日

聖日礼拝ハレルヤ!主の素晴らしい御名をほめたたえます。本日の礼拝は、教会堂での礼拝とインターネットでのライブ配信という形で行われました。賛美リードならびに司会は、榎いずみ先生がご担当くださいました。本日の礼拝には、カルガリーより伊藤ハッピー姉が集ってくださいました。皆さまとともに主の素晴らしい御名を賛美する恵みに与ることができましたことを感謝いたします。本日の礼拝メッセージは、「第六のしるし」というタイトルで榎先生が御言葉を取り次いでくださいました。まず私たちは以下の御言葉を音読いたしました。『さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」イエスはこういってから、地面に唾をして、その唾で泥を造られた。そして、その泥を彼の目に塗って、「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが逝った。「これは座って物乞いをしていた人ではないか。」ある者たちは、「そうだ」と言い、ほかの者たちは「違う。似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。そこで、彼らは言った。「では、おまえの目はどのようにして開いたのか。」彼は答えた。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」彼らが「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と答えた。人々は、前に目の見えなかったその人を、パリサイ人のところに連れて行った。イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。』(ヨハネの福音書9章1節~14節)目の癒しの奇跡については他の福音書にも記されていますが、一章全体を用いて丁寧に記述しているのは、本日参照しているこのヨハネの福音書9章の大きな特徴と言えます。この話の舞台は、ユダヤ三大祭りの一つである“仮庵の祭り”の頃です。“仮庵の祭り”とは、神がイスラエルの民をモーセを用いてエジプトから導き出した後、彼らが40年間荒野でテント生活を送っていた時に神の守りがあったことを覚え、記念する祭りです。イエス様と弟子たちの一行は、この祭りのためにエルサレムへと上っていきました。道すがら、イエス様は盲人の男性に目を留めます。ここで注目すべきは「イエス様が、この男性を見つけられた」という事です。そして、ご自身の唾で泥を作りそれを彼の目に塗り、彼に“シロアムの池で洗うように”と言われます。彼が言われて通りにすると、今まで見えなかった目が見えるようになったというのが、この聖書箇所の概要です。この奇跡が行われたのは、安息日であったと書かれています、ユダヤの戒律では“安息日にしてはいけないこと”とされていることを、イエス様はあえて戒律に挑戦するかのように成されたのです。イエス様は、その御言葉だけで人を癒すことがおできになる方です。(ルカの福音書7章:百人隊長のしもべの癒し「ただ、おことばを下さい」)それなのになぜ、わざわざ戒律を犯してまでご自身で泥を作って盲人の目に塗られたのでしょうか。またなぜ、イエス様は目の見えない彼に対して、宮の近くにあるベテスダの池ではなくてわざわざシロアムの池に行くようにと仰ったのでしょうか。イエス様は意図的に、この盲人をあえて遠回りの道へと追い込んでいきます。私たちの目には一見無駄なことに見えるような行動ですが、これが神様のマスタープランにおけるとても重要な1ピースなのです。家庭/人間関係の問題、健康/経済上の問題などで私たちの感情が揺さぶられる時、それらの問題の責任がどこにあるのかという事を必死に探そうとする傾向があります。事実、イエス様の弟子たちは戒律の教え(『わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代までに及ぼし』(申命記5章9節))を思い出し“この人が盲目なのは、だれが罪を犯したからですか”とイエス様に質問しています。それに対してイエス様は、「そうではない。神の御業が現わされるためだ」と答えておられます。“自分の行いに応じて、神が祝福してくださる/私たちを罰せられる”(=因果応報)という考え方は私たちの中に広く知られていて、日本人の世界観の根底にあるものです。しかし、月一度行われる「スピリチュアル・フォーメーション」で用いているテキストブックの第二章にこのようにあります。“「人の行いに応じて懲罰を下したり祝福しを与えたりする神」という物語は、こうした私たちに、この世界をコントロールすることができるという幻想を抱かせてくれます。”もちろん、信仰において行いは大切です。聖書はこのように記しています。『信仰も行いを欠いては死んでいるのです。』(ヤコブ書2章26節)“多く蒔く者は、多くを刈り取る”というのは、神の国の原則です。しかし気をつけなければいけない事は、「私たちが何かを行うのは、私たちが何かを得るためではなく、既に与えられている十字架のわざに対して私たちが応答していくためである」という事です。これをしっかりと理解しておかないと、“自分の行いによって、この世界をコントロールできる”といった誤った考えに陥ってしまいます。神様は私たちの目を開かせて、私たちを弟子として立ち上がらせたいと思っておられます。主は、御言葉を通して私たちの信仰を奮い立たせて、最終的にはこの御言葉へと導きたいと思っておられます。『彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。』(ヨハネ書9章38節)盲人の男性は、最初イエス様を“預言者です(17節)”と考えていましたが、次に“罪人かどうかはしりません”(25節)と言い、そして最終的に“イエスは主です”(38節)と告白するに至ったのです。私たちは今朝、主が私たちにとってどのようなお方であるかを理解していきましょう。私たちの人生に与えてくださっている、神の召命と召しについてしっかりと握っていきましょう。「盲人の目が開かれる」という奇跡は、旧約聖書には記されていません。しかしイザヤはその書の中で、 “メシアが来られる時には、このようなしるしが起こる”という事を語っています。『そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。』(イザヤ書35章5節~6節)この預言は、確かにイエス様によって成就されました。イエス様は見えていない者の目を開かれるだけではなく、見えていると思っているが本当は見えていない者たちの目をも開かせてくださいます。イエス様とともに居た弟子たちは、生まれつき目の見えない盲人の状況について“当時の戒律”というフィルターを通して見ていました。それゆえ弟子たちは、「彼が盲目なのは、誰の責任ですか」とイエス様に質問したのです。この物語は生まれ持った罪の性質が、イエス・キリストによって癒され回復され、救いへと導かれたという側面だけではなく、その場面に居合わせた弟子たちの目をもイエス様が開かせてくださったという側面があることにも注目しましょう。今日参照している聖書箇所の冒頭で、“(イエス様が)盲人をご覧になった”と書かれています。これは主の選び(神の主権の選び)であり、主の選びが第一にあるという事を覚えましょう。ルカの福音書には、イエス様が“ご覧になった”部分がいくつか記されています。『その後、イエスは出て行き、収税所に座っているレビという取税人に目を留められた。』(5章27節)『ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い・・』(15章20節)『イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。』(19章5節)イエス様が安息日に癒された男性は盲目だったので、イエス様が自分をご覧になっている(自分がイエス様に見られている)という事に気付いていませんでした。クリスチャンとして生きる私たちも、救われる前は「霊的に盲目」であったたので、主が私たちの人生をご覧になっているとは考えることができなかったかもしれません。彼は、物乞いをするしかなかった自分の生い立ちを変えられるとは思わず、また彼の両親も罪の思いで悩み追い込まれていたかもしれません。これは「全ての問題の原因は、私たちの“外”にある」という、私たちの中にある罪の性質のゆえです。責める、咎める、悔やむという事は、私たちが生まれもった罪の性質です。しかしイエス・キリストにある信仰によって救いに招かれている私たちクリスチャンは、御言葉を通して天の父のご計画を知ることができます。そして御言葉を通して自分たちの問題を見ていく時、自分が認めたくない弱さや、今までの歩みを否定していくような恐れを感じることがあるかもしれません。誰もが生まれながらにして霊に対しての盲人です。主はそのことを通して神の栄光を現されるのです。主は私たちを選び、私たちの人生を全てご覧になっておられます。主が見ておられる「私たちの人生」は、私たち自身が見ているそれとは異なるという事を理解すると、私たちの視点が随分と変わっていくことでしょう。『行って、シロアム(訳すと遣わされた者)の池で洗いなさい。』(ヨハネ書9章7節)主に選ばれた盲人が、“遣わされた者”という池に遣わされていきます。“シロアム”という言葉は、旧約聖書のイザヤ書にもすこし発音を変えて記されています。『この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水を拒み、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる。』(イザヤ書8章6節)時代背景を確認しましょう。当時、レツィン(=アラムの王)とレマルヤ(=北イスラエルの王)が南ユダのエルサレムを攻めてきました。その時、南ユダは彼らを見事に打ち破りました。民たちは、高ぶり、傲慢になってシロアハの水(=真理の御霊の導き)を拒んだと書かれています。これは何を意味しているのでしょうか。“シロアムの池”と表現されているものは単なる池ではなく、明らかに人格的存在を象徴しています。私たちの、霊的に閉ざされた目を開くことのできるお方であり、そのために遣わされているお方、を示しています、『神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。』(テトス書3章5節)神の憐れみによってこの盲人が選ばれて、御霊なる主が彼のもとに助け主として送られたのです。『わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方が私について証ししてくださいます。』(ヨハネ書15章26節)ヨハネ書9章4節の冒頭“わたしたちは”は、弟子たちを指しています。仮庵の祭りは、イエス様が十字架にかかられる半年前の出来事です。弟子たちが“御霊な主が、助け手として与えられる”という事を見るために、まことの安息であるイエス様(『人の子は安息日の主です。』(マタイ書12章8節))、安息日において盲人の目を、そして弟子たちの目を開かせてくださいました、それではなぜ、イエス様は安息日において奇跡を成されたのでしょうか。イエス様は度々、安息日に奇跡を行っていますが、マタイは、その福音書をユダヤ人の福音を目的として書かれたのでおそらくユダヤ人を配慮してあまり言及していなかったものの、ヨハネは詳細に記載しています。この安息日における御業は、イザヤが語ったメシヤ預言の成就を意味しています。しかし、律法学者の中でつまづきとなったのが、「この御業が安息日に行われた」ことです。これが、イエス様がメシアであるという考えを覆してしまう理由です。安息日にイエス様が奇跡を行った理由に関しては諸説ありますが、榎先生はこのように考えておられます。先生ご自身は、ここ数週間にわたりN.T.ライト氏の著作「イエスの挑戦(The Challenge of Jesus Christ)」を読んでおられる中で大きな励ましを受けていると仰っています、神は天と地を六日のうちに造らました。つまり、安息日の前(金曜日)に天地創造のわざを完了されました。イエス・キリストは安息日の前日の金曜日に十字架のわざを完了されました。(ヨハネ書19章)すべてのわざが完了された後、週の初めの日の朝早く、つまり安息日の翌日にイエスの復活が成されました。(ヨハネ書21章)「新しい創造の日の初めである」とN.T.ライト氏は語ります。新しい創造の初めに、神様が私たちの目を開いてくださいます。御業の完了が成されたあと、安息日を通して、私たちは新しい創造の日をむかえます。私たちが死から復活へと変えられるためには、安息日を通される必要があると考えられます。世の中が私たちに与える人生の見方は、大きく分けて次の二つです。① 楽観的に見る② 悲観的に見るイエス様は、私たちに「第三の見方」を与えてくださいます。新しい創造の初めが安息日です。安息日に新しい御業を行い、私たちの霊の目を開き、私たちを立ち上がらせてくださいます。“神のわざ”とはなんでしょう。『神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。』(ヨハネ書6章29節)私たちの人生を支え、根底から贖ってくださる。これがイエスの十字架のわざです。皆様の祝福をお祈りいたします。

7月5日(要約)

2020年7月 5日 バイリンガル礼拝ハレルヤ!主の素晴らしい御名をほめたたえます。本日の礼拝は、教会堂での礼拝とインターネットでのライブ配信という形で行われました。賛美リードならびに司会は、榎いずみ先生がご担当くださいました。主の素晴らしい御名を賛美し、御言葉を英語と日本語で味わい、聖餐の恵みに与ることができましたことを感謝いたします。本日の礼拝メッセージは、「第五のしるし」というタイトルで榎先生が御言葉を取り次いでくださいました。まず私たちは以下の御言葉を音読いたしました。『夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていった。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らの所に来ておられなかった。湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼れらは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのをみて、恐れた。しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。船はほどなく目的の地に着いた。』(ヨハネの福音書6章16節~21節)陶器がそれを造った陶器師の心(=作者のセンス)を表現しているかのように、ヨハネが記す“しるし”は、神のなさる御業以上に神ご自身を示しているということを、私たちはここ数週間にわたって学んでいます。福音の本質が表されているこの聖書箇所を、二つの視点(イエス様の視点・弟子たちの視点)から考えていきましょう。私たちの常識で考えて、水の上を歩くという事は不可能な事であり、誰しもやろうとは思わないことです。実はこの部分こそが、私たちの信仰の領域であると考えることができるのです。ヨハネの福音書には書かれていませんが、マタイの福音書にはペテロが水の上を歩くということが記されています。ここで押さえておきたいポイントは、“ペテロが、イエス様の仰ることに応答した”ということです。『イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。』(マタイ書14章29節)強風にあおられ、舟の上で恐れおののく弟子たちに向かって、イエス様は「わたしだ。恐れるな」と声を掛けられました。そしてペテロは「主よ。もしあなたであるのなら、私に水の上を歩いて来いと命じてください」と答えます。そしてイエス様の「来なさい」という言葉に、ペテロは彼の信仰を持って応答し、不可能と思われていた水の上を歩くことができたのです。主が語っておられる言葉に私たちが今日応答する時、私たちの人生の中で不可能と思われる困難な状況が可能なことへを変えられて行くという事を覚えましょう。本日は、この物語に関してヨハネの福音書とマルコの福音書を並行して確認していきます。以下の二つの聖書箇所を見てください。『それからすぐに、イエスは弟子たちを無理やり舟に乗りこませ、向こう岸のベツサイダに先に行かせて、その間に、ご自分は群衆を解散させておられた。』(マルコ書6章45節)イエス様は、弟子たちを“無理やり舟に乗せたとあります。『そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていった。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。』(ヨハネ書6章17節)弟子たちは、“自らすすんで”舟に乗り込んだとあります。ここでは、それぞれの作者の表現の違いはもとより、ヨハネの福音書は「弟子たちの視点で書かれているのに対し、マルコの福音書は「イエス様の視点」で書かれているのがわかります。私たちは多くの場合、弟子たちがそうであったように、見えている現実に重きを置いて状況判断/選択をする傾向があるのではないでしょうか。今日は、人生における試練を通される時に“イエス様の視点で物事を見て判断する”という事はどういうことであるのかを考えていきましょう。神様は弟子たちがどういう時、状況/環境に置かれていて、どこに向かっているのかをはっきり知っておられました。私たちの人生に対しても同じです。① 弟子たちの視点(ヨハネ書6章16節~17節)弟子たちが舟に乗り込んだ“夕方”とは、五千人の給食の奇跡が行われたその日の夕方です。舟を出した時、辺りは既に暗くなっていたとありますが、これはおそらく嵐が近づいているというしるしです。彼らはもともと漁師であったので、天気を見ることには慣れていたのでしょう。“暗くなっていた”ということはある意味、この時に弟子たちの心の様子を示していると考えることできます。彼らの心が暗くなっていた理由は、イエス様がまだ彼らのもとに来られていなかったからです。一日中、男だけで五千人もの人々に食べ物を与え、そして残りのパン切れを一つ残らず集めるという作業を行い、彼らの疲労困憊は尋常ではなかったはずです。それに加えて、「(今来て欲しい)イエス様がまだ来られていない」という現実に、言いようもない不安が彼らを襲っていました。イエス様は、私たちを見捨てず私たちを見放さず、時宜にかなって必ず来られるという御約束をもう一度思い起こしましょう。聖書の中に記される“海・水”という言葉は、「試練、私たちに敵対するもの」を意味しています。『あなたは馬で海を、大水の泡立ちを踏みつけられます。』(ハバクク書3章15節)これは、終わりの時代における預言とハバククがこう語りました。馬は神の力、海はイスラエルに敵対する者たちを意味し、神はそれを踏みつけるとあります。モーセの時代(神が葦の海を分ける)やヨナの時代(嵐に会った時に神の助けが注がれる)にも、聖書は同じようなことを記しています。主が来られるという約束を、私たちは「今」見たいのに、まだ主の時が来ていないという現実を目の前にするとき、私たちはたじろぎ恐れを感じることがあります。神が意図的に“神様の御業を与える時期”を遅らせていることがあっても、私たちは倒れることはありません。仮に倒れたとしても、私たちは必ず主によって再び立ち上がることができます。なぜなら、主は決して私たちをお見捨てにならないからです。スコットランドの新約学者ウィリアム・バークレー(William Barclay)は、このように言っています。「信仰者とは“絶対に倒れない人”ではなく、“倒れても立ち上がり前進する人”である。」弟子たちにとって、第一から第四までが間接的な体験であるのに対し、第五のしるしは彼らが嵐の中でイエス様に会うという直接的な体験でした。この体験をきっかけにして、彼らはカペナウムに導かれ、そこでの宣教が展開されていくことになります。この時にイエス様が語られた「わたしは命のパンです」という言葉に、多くの人々がつまづきました。イエス様について来た弟子たちですら裏切ったり、離れていく者たちもいました。『こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。それでイエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた。すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」』(ヨハネ書6章66節~68節)神はご自分の弟子を、様々な意味においてが同じ場所に留まるということをさせないお方です。神は私たちの霊的な部分に対して、絶えず新たな経験を通して“向こう岸に渡らせたい”と思っておられます。② イエス様の視点 (マルコ書6章46節)『そして彼らに別れを告げると、祈るために山に向かわれた。』(マルコ書6章46節)弟子たちが苦しんで嵐の中を通っている時、イエス様は弟子たちの為にとりなしの祈りを捧げるためにひとり山に向かわれたとあります。ルカの福音書にも、イエス様が後になって三度もご自分を裏切ることになるペテロのために、その裏切りが行われる以前にとりなしの祈りをささげたという事が書かれています。『しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。』(ルカ書22章32節)『イエスは、弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのを見て、夜明けが近づいたころ、湖の上を歩いて彼らのところへ行かれた。そばを通り過ぎるおつもりであった。』(マルコ書6章48節)イエス様は、弟子たちが大きな問題の中にいることを“見ておられ”ました。そして、弟子たちのもとに来られて「わたしだ。恐れることはない」と声を掛けられました。同じように、私たちが日々の生活において様々な試練を通されていることを、見て/知っておられます。このように、イエス様はとりなし、見て、そして来てくださるお方です。この最たるしるしが、キリストの救いです。イエス様は、私たちと共に試練を共に通られるだけではなく、共に苦しんでくださるお方です。十字架での贖いを成してくださったお方です。キリストの救いの本質は、主がどんな時も私たちと共におられ、私たちを目的地までしっかりと導いてくださるということです。私たちは日々の生活の中で、“神様の視点”を通して物事を見るという事を学んでいきましょう。皆様の祝福をお祈りいたします。

2020年6月28日 

2020年6月28日 聖日礼拝ハレルヤ!主の素晴らしい御名をほめたたえます。教会堂での礼拝とインターネットでのライブ配信という形で礼拝が行われました。賛美リードならびに司会は、榎いずみ先生がご担当くださいました。皆さまと心を一つにして、今日も真実なる主を賛美し、御言葉に触れる恵みを与えてくださった神様に心から感謝いたします。本日の礼拝メッセージは、「第四のしるし」というタイトルで榎先生が御言葉を取り次いでくださいました。まず私たちは以下の御言葉を音読いたしました。『その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買ってきて、この人々の食べさせようか。」イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。では、しようとしていることを知っておられた。ピリポはイエスに答えた。「一人ひとりが少しづつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。「ここに、大麦のパン五つと魚に引きを持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」そこで彼らが集めてみると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。』(ヨハネの福音書6章1節~13節)本日参照している箇所は、有名な「五つのパンと二匹の魚(五千人の給食の奇跡)」です。“無から有を作り出す”という内容は、キリストの福音の本質<奇跡の中の奇跡>である故、この話は全ての福音書の中に記されています。この話は、誰に焦点を当てるかによって御言葉の解釈に深みと幅が出て来る聖書箇所です。今日はこの奇跡を、弟子の視点から考えてみましょう。6節にこうあります。『イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり』キリストの弟子である私たちが、この御言葉から何を捉えていかなければならないかという事を考えて行きましょう。ここで見落としてはいけないのは、群衆の御言葉への渇きです。イエス様は、人々への給食の奇跡を二度行われました。第一が五千人の給食、そして第二が四千人の給食です。第二の給食の奇跡は、マタイ書とマルコ書のみに記されています。五千人の給食は、過越の祭りの時期(ヨハネ6:4)であり、草が多かった(ヨハネ6:10)とあることから、3月~4月という春先に行われたと考えられます。一方、四千人の給食の奇跡は、群衆を地面にすわらせた(マタイ15:35)とあることから、秋ごろに行われたと考えられます。つまり、第一の奇跡から第二の奇跡までは、約5~6か月くらいの間があったとみることができます。第二の奇跡では、群衆は3日間断食してイエス様の後をついて来たと書かれています。ここから、群衆がどれほど御言葉に飢え乾いていたかを想像できるでしょう。神の御言葉は、時代や世代を問わず“飢え乾く者”に働いてくださいます。『イエスは、舟から上がって、大勢の群衆をご覧になった。彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた』(マルコ書6章34節)イエス様は、群衆に霊的な必要があることをしっかりと見抜かれておられましたが、弟子たちはそれを見抜くことができませんでした。そこでイエス様は弟子たちに、『あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。(37節)と仰いました。弟子たちは今まで、3度にわたってイエス様がなされた奇跡を目撃してきました。しかしその奇跡の神髄を理解していなかったのです。『彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからである。』(マルコ書6章52節)給食の奇跡についても、単なる“パンの奇跡”を目撃したと考えているだけで、イエス・キリストそのものが私たちのための“命のパン(=まことのパン)であるという事を本当に理解していなかったのです。彼らは、イエス・キリストが主であるという事はわかっていましたが、イエス・キリストが全知全能の方であり、すべての必要を満たされるという事を信じていなかったのです。これがまさに、信仰の深みという領域です。五千人の給食の奇跡は、イエス様が弟子を通して、群衆の霊的な本当の渇きを満たされたというところに重要なポイントがあります。旧約の時代、あのモーセでさえも疑いの心を示したことがあります。主がなさると仰ったことに対して、彼は現実的な観点から主にこのように答えたのです。『しかしモーセは言った。「私と一緒にいる民は徒歩の男子だけで六十万人です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一か月の間食べさせる、と言われます。彼らのために羊の群れ、牛の群れが屠られても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚が全部集められても、彼らに十分でしょうか。」主はモーセに答えられた。「この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今にわかる。」』(民数記11章21節~23節)私たちの不信は、キリストを信じて救われた後でも完全に拭い去ることはできません。しかし主はモーセを、そして弟子たちを用いられたのです。なぜならこのような世、このような群衆に関わっていくのは、神ではなく私たち自身だからです。そのため、イエス様はピリポに“あなたがたで与えなさい”と仰ったのです。イエス様は、日々私たちをどのように試されているのでしょうか。① 御言葉に対して私たちがどのように対応していくかピリポは大変頭の回転が速く、現実を見て判断をすることができる人間ですが、霊的に若干疎いところがありました。『ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」』(ヨハネ書14章8節)その問いにイエス様はこのようにお答えになりました。『ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。』(9節)イエス様は、ピリポに“あなたがたが群衆を食べさせなさい”と言って、意図的に彼を試されたのです。それは、彼の“弟子としての目”を開かせるためでした。日々御言葉に応答する者となっていきましょう。主が語られる時に、主はそのすべての責任を取ってくださいます。主が私たちに語り、私たちを導いていかれる時に、主は私たちを決して惨めな思いへと落とされることはありません。主ご自身が“今にわかる”(申命記11章23節)と仰っておられるからです。② 主から聞いたことを人々に伝える/実行するイエス様が「人々をすわらせなさい。」と仰ったので、弟子たちは群衆たちを草の茂ったところにすわらせました。(ヨハネ6:10)また旧約の時代においても、主がモーセに対して「長老七十人を集め、天幕に連れて来なさい」と仰ったので、モーセはその通りにしました。(民数記11:24)“座らせた”という言葉に注目しましょう。『私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油を注いでくださいます。私の杯は、あふれています。』(詩編23編5節)神様は、私たちの為に食事を整えてくださると書かれています。つまり私たちは、神と同じ食卓についている、という事です。王の食卓に招かれた者として思い出す人物は、メフィボシェテです。彼の父親はヨナタン、ヨナタンはサウル王の息子です。サウル王の血筋の者であるので、当時のしきたりでは死刑になっても仕方のない立場にいました。しかしダビデがサウルに代わって王位に就いたとき、「サウルの家の者で、まだ、だれかいないのか。私はそのものに神の恵みを施したい。(第二サムエル記9章3節)としもべに言いました。そこで連れて来られたのが、このメフィボシェテでした。彼はダビデ王にように答えました。『いったい、このしもべは何なのでしょうか。あなた様が、この死んだ犬のような私を顧みてくださるとは。』(9章8節)“死んだ犬のよう”―自分は取るに足らない無価値な者なのに、あなたはなぜ私をこれほどまでに良くしてくださるのですか、という彼の心が現れています。ダビデはただその恵みによって、父ヨナタンのために息子であるメフィボシェテを王の食卓へ招いたのです。(9章13節)イエス様は弟子たちに、「余ったパン切れを一つ残らず集めなさい」と仰いました。パン切れ/パンくずという言葉で思い出すのはこの聖書箇所です。『ある女の人が、すぐにイエスのことを聞き、やって来てその足もとにひれ伏した。彼女の幼い娘は、汚れた霊につかれていた。彼女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであったが、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようイエスに願った。するとイエスは言われた。「まず子供たちを満腹にさせなけれなりません。子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのは良くないことです。」彼女は答えた。「主よ。食卓の下の子犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」』(マルコ書7章25節~28節)“子供たち”とはユダヤ人、そして“子犬”とは異邦人を意味します。この女の人が“子犬でも、パン屑は頂きます”と言った瞬間に、彼女の娘は即座に癒されました。それではなぜイエス様は、パンくずを集められたのでしょうか。イエス様はまずご自分の民(ユダヤ人)を満たされました。そしてなおも、異邦人に対する憐みと救いを残しておかれたのではないでしょうか。イエス様は“くずは決して無駄なものではなく、弟子であるあなたがたがそれを集めていかなけれがならない”という事を弟子たちに教えるために、「一つ残らずパンくずを集めなさい」と仰ったのではないでしょうか。「座る」という事は、主が私たちと共に食卓につかれるという事です。この日、草の上にすわった男たち五千人(女子供たちを含めれば、おおよそ二万人程)の中には、イエス様を信じていない人たちもいたはずです。永遠に至るまでの人生の方向性を見失っていた人たちを、イエス様はご自分の食卓へと招いて、彼らを共に“座らせて”くださいます。主は、私たちの必要のすべてを本当に満たしてくださるお方なのです。“人の魂は、神のうちに憩うまでは休まらない”これは、神学者アウグスティヌスの有名な言葉です。神の御手の中に置かれるまでは、本当の意味で私たちの魂に安息が与えられることはありません。この給食の奇跡に用いられたのは、名もなき少年が持っていた五つのパンと二匹の魚です。ヨハネ書には、このパンが大麦のパンであったことが記されています。大麦のパンとは、最も安価で動物の餌として用いられるものであり、価値の無い物の代名詞です。ユダヤの戒律においては、姦淫の女を買い取る時に大麦が用いられました。『そこで私は、銀十五シェケルと、大麦一ホメルと大麦一レテクで彼女を買い取り』(ホセア書3章2節)価値の無い物が主の御手の中に置かれる時、それらは主にあって祝福され、そして用いられていくのです。『イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』(ヨハネ書6章35節)主は私たちの手に、いのちのパンである主ご自身を委ねてくださっています。イエス様に従う一人一人の信仰を、主は試しておられます。御言葉に私たちがどのように応答していくのかを考える一週間としていきましょう。神様が見ておられるものと、私たちが置かれている現実には大きなギャップがあります。このギャップは、私たちの経験や知識といったもので産めることのできるものではありません。主がピリポの目を開かれたように、私たちも主に霊の目を開いていただきましょう。奇跡は弟子たちの手を用いて行われたという事を覚えましょう。『大麦のパン五つから出てきたパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。』(ヨハネ書6章13節)主は、与えても余りあるほどに私たちの全ての必要、特に霊的な満たしを行ってくださいます。私たちはこの霊的なパンを届ける者として召されているという事を覚えましょう。皆様の祝福をお祈りいたします。

2020年5月24日 

2020年5月24日 聖日礼拝ハレルヤ!主の素晴らしい御名をほめたたえます。本日の礼拝は牧師宅からのインターネット配信で行われました。賛美リードならびに司会は、榎いずみ先生がご担当くださいました。愛する神の兄弟姉妹が主の素晴らしい御名を賛美し、素晴らしい御言葉を聞く恵みに与れましたことを感謝いたします。本日の礼拝メッセージは「ペテロの手紙第二」より、“花嫁としての備え”を今日の学びのテーマにとして榎先生が御言葉を取り次いでくださいました。まず最初に、私たちは以下の聖書箇所を拝読いたしました。『しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることが無く、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は盗人のようにやってきます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。このように、これらすべての者が崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。』(第二ペテロ 3章7節~11節)教会史がはじまってから2000年、教会は花婿なるイエス様の再臨を待ち続けています。私たちが生かされているこの終末の時代、私たちはどの様な姿勢を持つべきかという事を学ぶとき、“私たちが主の再臨を待ち望んでいる以上に、キリストご自身が花嫁なる私たちを迎えに来られることを待っておられる”という事をしっかりと覚えることが大切なポイントです。教会、そしてそれに連なる私たちは、“キリストの花嫁”です。この地上における“花嫁の役割”とは、「準備をする(自分自身を備える)」ことです。主はこの時代、何を待ち望んでいるのでしょうか。それは、私たち一人一人が悔い改めに進むことです。『主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることが無く、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。』(3章9節)『神のことばと祈りによって、聖められるからです。』(第一テモテ 4章5節)私たちは“キリストの花嫁”として、名実共に相応しいものとなるように準備し、御言葉と祈りによって整えられていくようにしましょう。主を待ち望む姿は、整えられた者に明らかに現わされていきます。『しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。』(3章7節)明確な神様の憐れみと忍耐のゆえに、まだキリストがこの地に来られていないので神の裁きは今は保たれています。神の忍耐は、絶えず救いという一つの方向性に向かって示されています。同じように、私たち信仰者が経験する忍耐も、何かへと私たちを向かわせるためのものであることを覚えましょう。私たちの忍耐を通して、私たちを神の栄光へと向かわせ、神の素晴らしい御業が現わされていくのです。先週の礼拝でも学びましたが、ノアの時代、にせ教師たちは歴史上の神の裁きに対して見て見ぬふりをしていました。神の滅びと裁きは現実にあり、この時代にキリストが戻ってこられ、神の御国が打ち立てられ神の裁きがなされるのです。イエス様はこう仰られました。『(終わりの時代には)にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。』(マタイ書24章11節~13節)コロナウィルス禍で揺り動かされている昨今、私たちが置かれている状況はまさにこのようなものかもしれません。この時代は、聖書によれば必ず滅びへと向かっています。そこで私たちは、天の父なる神の御心をしっかりと理解する必要があります。神様は、この時代にあって例外なくすべての者が神のもとに立ち返ってくることを願っておられます。『私は誓って言う。― 神である主の御告げ ― わたしは決して悪者の地を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ、イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』(エゼキエル書33章11節)神の御言葉は真理です。悪者でさえも滅ぶことを喜ばれない神の救いは、例外なくどのような人にも与えられています。神様は私たち一人一人のために、もう既に全てを備えてくださっているのです。『ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』(へブル書4章16節)主に対する渇きを感じる時、私たちはもっと主を知りたいという思いが生まれます。私たちは、自分の中に沸き起こる霊的な欲求を敏感に感じ取れるようになっていきましょう。私たちの日法律家でありメソジストの牧師であるエドワード・バウンズ師(Edward Bounds)は、その著書の中でこのように記しています。「あなたが隠れた所で祈ることをしていないなら、あなたは神から遠ざかっている。」祈りを怠る時に、私たちは霊的な枯渇を感じなくなります。主への渇きがない生活の特徴は、祈りの生活がないということです。この時代は確実に終わりへと向かっています。しかし、この先にある恵み“キリストは必ずこの地に戻ってこられる”という事に目を向けましょう。私たちの人生には苦労、痛み、苦しみがあります。神様は私たちと共に歩み、私たちの試練や深い悲しみに寄り添ってくださるだけではなく、私たちに“その先にある希望”をはっきりと聖書において語ってくださいます。そしてそれは、御霊なる主の導きの中で確信と感謝へと変えられていきます。『御霊も花嫁も言う。「来てください。」』(黙示録22章17節)御霊と花嫁(=1つの教会に連なる私たち信徒)は常に1セットです。キリストの花嫁なる教会は、御霊の導きの中で私たちはいかなる試練の中でも御霊の声を聞き分け、その先にある主の訪れを待ち望むことができます。『神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。』(ローマ書8章14節)暗澹とした今の時代、私たちは御霊の声を聞き分けていきましょう。御言葉は私たちの人格を造り、品性を養ってくださいます。これはいつの時代にも変わらない神様の方法です。私たちは霊的な渇きを持って御言葉に親しみ、いま置かれている場所で“キリストの花嫁”としての自覚を持って日々整えられていきましょう。コロナウィルス禍による自粛生活/隔離生活は、はや3か月目に突入しました。私たちはこの事態を“霊的な安息のシーズン”と捉え、忙しい毎日の中では難しかった“主と過ごす時間”をさらに充実させて、今こそ霊的な土台を建て上げて成長する機会としていきましょう。『しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。』(3章7節~8節)“一日は千年のようであり、千年は一日のようです”という言葉は、『まことに、あなたの目には、千年も、昨日のように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。』(詩編90編4節)を引用したものと思われます。ペテロがこの手紙を書いたのは、イエス様が天に戻られてから30年以上も経った後の頃です。ですから、にせ教師たちが“キリストはいつ戻って来るのか?”という不信仰な言葉を発するのも想像に難くないでしょう。しかし、主の“すぐに”は、私たちの持つ観念とは違うという事を覚えておきましょう。ペテロは10節でこのように書いています。『しかし、主の日は盗人のようにやってきます。』また、ルカの福音書にも、イエス様が仰った言葉がこのように書かれています。『あなたがも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから。』(ルカ書12章40節)聖書が語る“すぐ”という言葉には、「突然/予期せぬ時」という意味が込められています。神様は、ご自身の定められた時に遅れずに必ず来られるのです。ヨハネの黙示録に記される7つの教会のうち、再臨信仰を貫いたフィラデルフィアの教会に向けて神様はこのようにお告げになりました。『あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。わたしは、すぐに来る、あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。』(黙示録3章10節~11節)彼らは正しい信仰の道を怠らずに歩んだので、神様は彼らを試練の時に守られるのです。『主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。』(詩編5編3節)やがて来られる主の時に備えるとは、私たちの身を整えることです。私たちはまず主に自分の目と心を向けましょう。『さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように私たちの所に来、後の雨のように、地を潤される。』(ホセア書6章1節~3節)“1日は千年のようであり、千年は一日のようである”という神様の時間軸を用いると、“二日の後”とは2000年後となります。その実、キリストのご誕生から2000年後、1948年にイスラエルは国家を再建しました。霊的に解釈するとすれば、2000年前にキリストが十字架で犠牲を持って私たちの罪を赦し、私たちを生き返らせてくださったということになります。神は二日の後、2000年後に私たちをキリストの十字架の贖いによって生き返らせ、三日目にキリストが墓から立ち上がられたように、聖徒たちを三日目のシーズンに主の御前で生きるために立ち上がらせてくださるのです。『しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行うなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。』(エゼキエル書18章21節)この御言葉の土台には、神のひとり子の犠牲があります。親は誰であれ、自分の子どもを愛することを決して止めません。キリストに従う信仰者は日々御言葉に立たなければなりません。御霊に導かれて神に立ち返り、日々悔い改めを持って軌道修正をしつつ歩みましょう。神の前に身を正し、聖められていく者となっていきましょう。来週5月31日はペンテコステです。キリストの花嫁である私たちは、どのように御霊とともに歩みつづけることができるのでしょうか。『彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊にみたされ、神のことばを大胆に語り出した。』(使徒行伝4章31節)人々にキリストの死と復活を宣べ伝えていた使徒たちは、祭司たちや守衛長たちによって不当に逮捕され投獄されました。しかし彼らは恐怖に怯えることなく、また政治の圧力に屈することなく、人々が祈りを捧げている場所へと向かっていきました。そしてこの祈り会の場所が聖霊によって揺り動かされ、人々は聖霊で満たされ、そこで福音が語られるようになりました。大きな迫害や問題が起こったとき、彼らはまず最初に祈りをささげたのです。「祈っても何も変わらない」という言葉を私たちは捨てていきましょう。祈りこそ、神の奇跡と神の御業を教会にもたらしてくださる御国の武器となるのです。『私の愛する方よ。急いでください。香料の山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください。』(雅歌8章14節)私たちはどの様な状況に置かれていても、主を待ち望んでいきましょう。祈りこそが、私たちの人生や私たちを取り巻くこの状況に素晴らしい神の奇跡をもたらしていくのです。1890年代に、スコットランドの教会で大いに用いられた著名な主の器であるアンドリュー・ボナー師(Andrew Bonar)は、自身の著書のなかでこのように言っています。「神は、ご自分の民が“祈り以外に望みがない”というところまで追い込まれることを願っておられる。ここにこそ、教会が世に立ち向かっていく力があります。」祈りをもって、御霊の導きによって、日々“キリストの花嫁”として整えられていきましょう。皆様の祝福をお祈りいたします。

2020年5月17日 

2020年5月17日 聖日礼拝ハレルヤ!主の素晴らしい御名をほめたたえます。本日の礼拝は牧師宅からのインターネット配信で行われました。賛美リードならびに司会は、榎いずみ先生がご担当くださいました。大人も子供もともに声を合わせ、主の素晴らしい御名を賛美し、素晴らしい御言葉を聞く恵みに与れましたことを感謝いたします。本日の礼拝メッセージは「ペテロの手紙第二」より榎先生が御言葉を取り次いでくださいました。まず最初に、私たちは以下の聖書箇所を拝読いたしました。『愛する者たち、私はすでに二通目となる手紙を、あなたがたに書いています。これらの手紙により、私はあなたがたの記憶を呼び覚まして、純真な心を奮い立たせたいのです。それは、聖なる預言者たちにより前もって語られたみことばと、あなたの使徒たちにより伝えられた、主であり救い主である方の命令を思い出させるためです。まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが想像のはじめからのままではないか。」こう主張する彼らは、次のことを見落としています。天は大昔からあり、地は神のことばによって、水から出て、水を通して成ったのであり、そのみことばのゆえに、当時の世界は水におおわれて滅びました。』(第二ペテロ 3章1節~6節)先週まで学んでいた2章において、ペテロは偽教師や偽預言者に対して厳しい戒めの言葉を書きしるしました。彼の言葉は、私たちの内にも潜んでいる“偽教師の霊”に対しての訓戒としても用いることができます。御言葉に触れる時、私たちは時折その御言葉が心に刺さり痛みを感じることがあります。「痛みを覚える」ということは、そこに何かしらの病があるという事です。そしてその病を抱える部分は「私たちが癒しを必要としている部分」です。『人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私はどうしたらよいでしょうか」と言った。』(使徒行伝2章37節)私たちの心に御言葉のメスが切り込まれるのは、私たちの心の中に神によって癒されなければならない部分があるからです。終わりの時に備えて私たちが心得ておかなければいけないのは、“キリストが再び来られることを覚える”という事です。『それは、聖なる預言者たちにより前もって語られたみことばと、あの使徒たちにより伝えられた、主であり救い主である方の命令を思い出させるためです。』(3章2節)今一度、私たちが召された使命が何であるかを考えてみましょう。ここで鍵となる言葉は、3章1節の冒頭にペテロが用いた言葉「愛する者たち」です。ペテロはこの言葉を、3章の中に4回も用いています。“愛する者たち”-これが私たちのアイデンティティーであり、私たちが神の目にとって何者であるかという事を明確に示しています。ペテロは、偽教師や偽預言者たちによって惑わされて信仰の道から外れ、打ちひしがれていた人々に対して、“愛する者たち”と呼び掛けて彼らに励ましの言葉を語っています。キリストを信じる信仰者にとって大切な使命は、「神は私たちをどのようにご覧になっているか」という事を意識することです。『彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。』(マラキ書4章6節)神は私たちを先に知っておられ、私たちを先に愛しておられます。この神の愛と聖霊のお働きが、私たちの傷ついた魂に回復を与えてくださるのです。救いは神にしかありません。『私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなに素晴らしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。』(第一ヨハネ3章1節)私たちはすでに“神の子ども”とされています。そして私たちは、全世界を造られた神に愛されています。神が語られる事実を、心から信じて歩みましょう。テリー・バーゴ(Terry Virgo)氏は著書の中で、このように書いています。「あなたはクリスチャンとして、忙しいふりをして自分の価値を証明しなくてもいい。神の恵みがあなたを解放し、あなたを自由にし、すでに神の子としてくださっているからだ。」私たちの内には、何かを達成する、功績を上げるという事で自分の“必要性”をはかるという性質があります。しかし何が出来ても出来なくても、私たちはすでに神の子とされ、神に愛されているという事をしっかりと今日受け取りましょう。『また、偽預言者が大勢表れて、多くの人を惑わします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。』(マタイ書24章11節~12節)『まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについたのちも、すべてが創造のはじめからのままではないか。」』(3章3節~4節)彼らは何を嘲るのでしょうか。それは神の真理と神の再臨です。この部分をリビング・バイブル訳で確認すると、そのことがよくわかります。“まず第一に思い出してほしいことは、終末の時代には、あざける者どもが現れ、真理をあざ笑い、思いつくかぎりの悪を行うということです。彼らはこんなことを言う議論のベテランです。「キリストがまた帰って来るという約束はどうなったのか。この世界は造られた最初の日から何も変わらないではないか。イエスが帰って来るなどということはありえない。」”いつの時代にあっても、神の存在と再臨に対する否定や拒絶の議論は起こります。キリストの従う者として、このような風潮には目を見張る必要があります。『それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。』(ローマ書2章4節~5節)神様が沈黙を守られる時、それは神様が不在であるという事ではありません。これは神の忍耐と神の御業がなされるための備えの時であり、私たちが神のみもとに立ち返ることを静まり、忍耐強く待っておられるというしるしです。遠藤周作氏の作品を題材としてマーティン・スコセッシ監督が2017年に作った映画「沈黙」は、隠れキリシタンに対する江戸幕府のひどい迫害のなかで、なぜ神様は沈黙を守っておられるのかという事を私たちに問いかけています。私たちは、この状況を“神様の視点”で理解しなければなりません。私たちの生活の中でも、“神を感じられない”というシーズンを通されることがあるかもしれません。しかし神の沈黙は、神のわざの始まりであり、備えであるという事を覚えましょう。イエス様ご自身も、“神の沈黙”を体験された一人です。十字架に付けられたイエス様は、言葉にできないほどの苦しみを通されたあと、このように叫ばれ、息を引き取られました。『しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。』(マタイ書27章50節)愛するひとり子なるイエス様がこれほどまでに苦しむ姿をご覧になりながら、父なる神は沈黙を貫かれたのです。弟子たちは散り散りに逃げ去っていきました。しかしイエス様は、この後復活されました。なぜなら神の沈黙が、神の忍耐と神の御業への備えだったからです。御子の犠牲を通して神を信じる私たちが救われ、神の子どもとされました。イエス様の尊い犠牲のゆえに立ち上がることができるのです。キリストに信頼する者は、決して失望させられることはありません。神様は、その沈黙の中でも私たちを深く愛してくださり、私たちの悩み苦しみに寄り添ってくださるのです。『イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した。』(ホセア書11章1節)更に御言葉は、“わたし自身がかがみ、彼らを養ってきた”と続きます。ここに、いつも私たちを見守ってくださっている父の姿を見ることができます。『こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」こう主張する彼らは、次のことを見落としています。天は大昔からあり、地は神のことばによって、水から出て、水を通して成ったのであり、そのみことばのゆえに、当時の世界は水におおわれて滅びました。』(3章4節~6節)偽教師たちが語っていたことは“キリストの再臨の約束はどこにあるのか。イエスは本当に帰って来るのか。”という再臨に対する否定です。パウロはそれに対して、創世記7章に書かれているノアの話を引用して偽教師たちが見落としている大切な事がらを明らかにしていきます。大洪水が起こる前、人々は自由奔放に、放縦に生きていました。彼らはやがて起こる滅びという現実に“見て見ぬふり”をしていました。神の裁きは必ず行われます。キリストは必ず再び戻って来られるのです。『私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは汚れなく、非難されるところなく、命令を守りなさい。』(第一テモテ6章14節)『また、かつての世界を放置せず、不敬虔な者たちの世界に洪水をもたらし、義を宣べ伝えたノアたち八人を保護されました。』(第二ペテロ2章5節)ノアは120年という箱舟の製造期間のあいだ、神の義と神の裁きを宣べ伝えてきました。しかしここで起こる大洪水は、人々が今まで経験したり想像をしたことも無いことだったのです。そのため、周りにいる人々は、彼の忠告に耳を傾けなかったのです。そしてそこに神の裁きが下されるのです。神の救いは私たちを驚かせたり、あるいは私たちに疑いや疑念を抱くこともあるかもしれません。しかしそれは、確かに存在する神の現実であるという事をしっかりと理解しましょう。終わりの時代の視点をしっかりと持ち、キリストは必ず戻ってくるという事実に立ち続けましょう。惑わしの霊をもたらす偽教師たちは、誤った教えを語るベテランです。そこで私たちは「将来から今を見つめる」という視点を覚えましょう。“必ず来られる”という時に私たちはしっかりと備えていきましょう。それでは私たちはどの様に備えていけばよいのでしょうか。『愛する者たち、私はすでに二通目となる手紙を、あなたがたに書いています。これらの手紙により、私はあなたがたの記憶を呼び覚まして、純真な心を奮い立たせたいのです。』(3章1節)ペテロは、彼らの“記憶を呼び覚ましたい”と書きました。それは彼らに主の命令を思い起こしてほしい、キリストの御言葉を彼らのうちに宿して欲しい(コロサイ書3章)という思いです。私たちは、神の恵みと平安を私たちの内に確立させていくためにどの様にしたらよいのでしょうか。『神と、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かにあたえられますように。』(第二ペテロ1章2節)私たちが主を知ることで、神の恵みと平安が私たちの中に増し加えられていきます。私たちが神との人格的な聖く親密な関係を築いていくことが、私たちを様々な悪や誘惑などに対抗できる唯一で力強い武器となります。私たちには先の事はわからなくても、全てを治めておられる主に信頼を置くという事が、私たちの力となります。『あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。』(第一ペテロ1章5節)私たちは、キリストの信仰によって、そして神の御力によって守れらています。どのような状況にあっても、私たちは神の御手の中にいるという事を覚えましょう。『イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか ― 主のことば ―。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。』(エレミヤ書18章6節)終わりの時代にあって、私たちの正しい視線が守られ確立されていきますようにお祈りいたします。

2020年5月10日 

2020年5月10日 聖日礼拝ハレルヤ!主の素晴らしい御名をほめたたえます。母の日おめでとうございます。私たちを産んでくださった肉の母、そして霊の母に深く感謝いたします。本日の礼拝は牧師宅からのインターネット配信で行われました。賛美リードならびに司会は、榎いずみ先生がご担当くださいました。今日も一人一人が主の前に導かれて、素晴らしい御言葉を聞く恵みに与れましたことを感謝いたします。本日の礼拝メッセージは「ペテロの手紙第二より榎先生が御言葉を取り次いでくださいました。まず最初に、私たちは以下の聖書箇所を拝読いたしました。『この者たちは水がない泉、突風で吹き払われる霧です。彼らには深い闇が用意されています。彼らは、むなしいことを大げさに語り、迷いの中に生きている人々の間から現に逃げ出しつつある人たちを、肉欲と好色によって誘惑しています。その人たちに自由を約束しながら、自分自身は滅びの奴隷となっています。人は自分を打ち負かした人の奴隷となるのです。主であり、救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れから逃れたのに、再びそれに巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる戒めから再び離れるよりは、義の道を知らなかったほうが良かったのです。「犬は自分が吐いた物に戻る」、「豚は身を洗って、また泥の中を転がる」という、ことわざどおりのことが、彼らに起こっているのです。』(第二ペテロ 2章17節~22節)ペテロはこの2章に入って、教会の中に現れる偽教師や偽預言者たちに対しての厳しい警告を書き綴っています。私たちは時折「福音が何を語っているのか」ではなく、「福音に何を語ってもらいたいか」という思いにかられることがあります。また本来「神がどのようなお方であるか」と考えるところを、「自分にとってはどの様な神様であってほしいのか」という思いを心に抱いてしまうことがあります。これが実はこれが偽教師たちの特徴です。福音が何を語っているのかが理解できないとき、それを私たちの都合の良いように曲解してしまったり、また御言葉の一部だけを切り取って、自分の思いに合わせるようにしてしまうことがあります。そうする時、神の御言葉は“むなしいこと(2章18節)”になってしまいます。ペテロは、“御言葉は、神の霊によって運ばれた”と記しています。『預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。』(第二ペテロ1章21節)私たちは “今日、主が私たちに何を語られているのか”という事に注意を払うことが大切です。聖書に何を語ってもらいたいか、という事ではなく、聖書が私たちに何を語っておられるか、という事に心を向け、そのために私たちは何を聞き、何を見ることが必要であるかを考えましょう。ペテロはこの手紙を、信仰に対する迫害に直面し小アジアのいたるところに散らされているユダヤ人たちに向けて書き綴りました。彼らはその地に根ざし異邦人も加えられて行き、教会を建て上げ主を礼拝し賛美する中にあって、多くの偽教師たちが現れて様々な問題(土着の迷信や異教の思想など)が発生していきました。ペテロはそのような中でも肉欲や好色、放縦とった不品行を強く糾弾しています。迷いの状況から必死に逃げて来た人々に、偽教師たちは彼らの誤った行いを持って追い打ちをかけ、教会内のモラルを低下させようとしていました。『彼らは、むなしいことを大げさに語り、迷いの中に生きている人々の間から現に逃げ出しつつある人たちを、肉欲と好色によって誘惑しています。』(2章18節)信仰者として私たちが覚えるべきポイントは次の2つです。① 良い道を選び続ける② 悪い道を避ける小アジアの教会のいたるところで、惑わされる者(信者たち)と惑わす者(偽教師たち)の間の霊の戦い(真理に立ち向かう戦い)が起きていました。『しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。』(ガラテヤ書4章9節)私たちに敵対するサタンは“惑わす者”です。『こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使い立ちも彼とともに投げ落とされた。』(黙示録12章9節)『しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。』(第一テモテ4章1節)サタンの手口は巧妙です。私たちは惑わされていても、それに気付けない弱さがあります。私たちが惑わされているという事に気付くためには、神の御言葉と祈りが必要です。『「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。』(第二コリント4章6節)『しかし、主が人に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。』(第二コリント3章16節)神様の御心に沿った祈りに対して、聖霊様は働いてくださいます。私たちは常にこの御言葉を宣言し、私たちの立ち位置を日々しっかりと確認しましょう。『兄弟たち。あなたがたのうちに、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者が無いように気をつけなさい。「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。』(へブル書3章12節~13節)“心が頑なになる”というのは、私たちが惑わされている時の特徴です。私たちが惑わされている時には、神の御声を聞くことができません。ですから私たちは、共に集まり互いに励まし合いましょう。ここに神の御守りと永遠の祝福があります。先週の礼拝で、バラムという人物について触れました。バラム自身、主の御声に聞き従い、正しい道を歩んでいた時期もありました。しかし富に目がくらんで、悪い道を避けることを怠ってしまいました。私たちの中にもそのような経験をしたことはないでしょうか。毎週の礼拝に出席し、什一献金をしっかりと捧げ、神様を愛していながら、どうしても悪い習慣から抜け出すことができないという人はいないでしょうか。これは、「これぐらいやっているから大丈夫だろう」という私たちの罪に対する妥協であって、惑わしの霊によるものです。私たちの中に、“バラムの霊”が入っていないか、今一度確かめてみましょう。神の語りかけは、一瞬一瞬日々異なります。神は羊飼いで私たちは羊の群れです。羊は、日々羊飼いの声を聞き分け、羊飼いが導く方向へ進んで行かなければなりません。神の御言葉を聞き、祈りを持って主の導きに従っていきましょう。第二サムエル記に記されているダビデと神様の対話部分を見てみましょう。『ダビデは主に伺った。「ペリシテ人の所に攻め上るべきでしょうか。彼らを私の手に渡してくださるでしょうか。」主はダビデに言われた。「攻め上れ。わたしは必ず、ペリシテ人をあなたの手に渡すから。」』(第二サムエル5章19節)『ダビデは主に伺うと、主は言われた「上って行くな。彼らのうしろに回り込み、バルサム樹の繁みの前から彼らに迎え。バルサム樹の繁みの上で後進の音が聞こえたら、そのとき、あなたは攻め上れ。その時主はすでに、ペリシテ人の陣営を打つために、あなたより先に出ているからだ。」』(5章23節~24節)敵が目前に攻めて来るのを見て、取るべき行動が明らかであったとしても、ダビデは主にまず伺いを立てました。当たり前のことに対してすら、ダビデは主の御言葉を求めました。なぜならダビデは常に主を自分の前に置いていたからです。『私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。』(詩編16編8節)『あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。』(箴言3章6節)私たちの日々の歩みの全ての場面において、主を認めましょう。私たちの魂は常に神に向いていて、私たちは既に勝利者としてここに立てられています。『ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについての言葉を通して実現するのです。』(ローマ書10章17節)一瞬一瞬神様からの語り掛けを私たちが聞き続けるということが、私たちの信仰生活における大きな歩みです。2世紀の神学者であり三位一体論を最初に論じた人物であるテルトゥリアヌスは、ヨハネの福音書1章1節「初めにことば(=ロゴス、神ご自身)があった」という部分を、“初めに会話があった”と説明しています。自分だけが語るのではなく、相手の言う事も聞くという会話を通して、生きた関係が生まれます。『善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。』(第一列王記3章9節)頑なな心を持った偽教師たちに対して、神はロバの口を通して語られました。(2章16節)そして神のこの語り掛けが、彼らの心を開いていきました。神様は預言者アモスを通して何度も“わたしのもとに立ち返りなさい”と人々に言われました。コロナウィルス禍が世界中に広がっている今こそ、私たちが神の御声をはっきりと聞かなければいけない時代です。『その人たちに自由を約束しながら、自分自身は滅びの奴隷となっています。人は自分を打ち負かした人の奴隷となるのです。』(第二ペテロ2章19節)偽教師たちの語る“自由”は「生き方における自由」であって、本質的な魂の自由ではありませんでした。(『この者たちは水がない泉、突風で吹き払われる霧です。彼らには深い闇が用意されています。』(2章17節))しかし聖書の与える“自由”は、「キリストにある自由」であって、私たちの心/魂/肉体のいずれにおいても誰からも、何者からも束縛されない本質的な自由です。『罪から解放されて、義の奴隷となりました。』(ローマ書6章18節)神の御子キリストは、私たちにこの自由を与えるためにこの地に来られました。キリストにあって、私たちの魂は解放を与えられ自由にされています。私たちはここに生き続けましょう。『この福音のために私は苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばはつながれていません。』(第二テモテ2章9節)『キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。』(ガラテヤ書5章1節)『なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。』(ローマ書8章2節)キリストの従う私たちは、命を選びとり、二度と罪のくびきを負わされないようにしましょう。サタンの目的は、私たちを神様から引き離し私たちを不義の器として用いることです。サタンが何を私たちに吹き込み、私たちを惑わそうとしているのかということをに注意しましょう。私たちは、神の栄光を現すために造られました。すべての被造物は、その「造られた目的」に沿って生きる時、本当の自由を得ることができます。『実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。』(エペソ書2章10節)『主であり、救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れから逃れたのに、再びそれに巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪くなります。』(2章20節)ペテロは、「神を知る事によって、私たちはこの世の汚れから救われている」という事を強調しています。①良い道を選び続ける、②悪い道を避ける、というこの2つのポイントをバランスよく保ち、日々の信仰生活を送っていきましょう。『私の敵よ、私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がる。私は闇の中に座しても、主が私の光だ。』(ミカ書7章8節)これは、敵に対する預言者の宣言です。私たちの信仰生活には、絶えず戦いがあります。しかし神様との歩みは、私たちの人生と霊に安らぎと将来、希望を与えます。命を選び取っていく私たちの今日の歩みが、神の御国の拡大へと大きく影響をもたらしていくという事を覚えましょう。主にあって皆様の祝福と平安をお祈りいたします。

2020.5.3  霊に目覚める (バイリンガル)

2020年5月 3日 バイリンガル礼拝ハレルヤ!主の素晴らしい御名をほめたたえます。本日の礼拝は牧師宅からのインターネット配信で行われました。賛美リードならびに司会は、榎いずみ先生がご担当くださいました。今朝も神にある兄弟姉妹が主の御言葉を日本語と英語で聞き、主を礼拝する恵みに与れたこと、また本日は聖餐式の恵みに与ることができましたことを感謝いたします。本日の礼拝メッセージは「霊的に目覚める」というテーマで、ペテロの手紙第二より榎先生が御言葉を取り次いでくださいました。まず最初に、私たちは以下の聖書箇所を拝読いたしました。『ところがこの者どもは、捕らえられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えています。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたと一緒に宴席に連なる時に自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂った振る舞いを阻んだのです。』(第二ペテロ 2章12節~16節)第二の手紙2章に入ってからペテロの厳しい言葉が続きますが、彼の目的とするところは、教会の一部に起こっている偽教師などの問題に対する不満に対する糾弾ではなく、この手紙を読んでいる者たちが神の召しにしっかりと立ち(『ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。(第二ペテロ 1章10節)』)、彼らが霊的に目覚めることを励ますことです。初代クリスチャンは、“眠りから目覚める”という表現を良く用いました。聖書における“眠り”とは、死を意味します。ヨハネ書11章に記されているラザロの復活の部分を見てください。『わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。』(ヨハネ書11章11節)弟子たちは “ラザロはただ眠っている(=Sleep)”と考えたのですが、イエス様はラザロの死をお話しになっていたのです。『眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。』(エペソ書5章14節)ペテロは、第二の手紙を通して霊的に眠っている人々に対して、― キリストの光に照らされる― キリストを信じる信仰によって霊的に目覚めるという、神様が私たちに望んでおられることを書き綴っています。N.T.ライト氏はその著書の中で、このように言っています。「眠りから覚めるというのは、神が人の生活に関わる際に起こることのうちで、最も基本的な働きである。」目覚めるという事は、それ自体が神の素晴らしい御働きであることを今日も感謝しましょう。それでは、偽教師たちはどの様な特徴があるのかという事を、今日の聖書箇所から詳しく見ていきましょう。① 御霊に導かれていない者たち『ところがこの者どもは、捕らえられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。』(2章12節)2017年度版の聖書では、この部分に“この者たちは、本能に支配されていて”という文章が用いられています。この者たち(=偽教師たち)は旧約聖書にも精通し、神を知っていて、人々に説教もしていた人々です。しかし彼らは、聖霊によって導かれるキリストのご支配ではなく、肉によって支配されていました。肉に従って歩むことと、御霊によって歩むことについては、パウロがローマ書8章に詳しく記しています。御霊を持たない人間とはどのような人でしょうか。『「終わりの時には、自分の不敬虔は欲望のままにふるまう、あざける者どもが現れる。」この人たちは、御霊を持たず、分裂を興し、生まれつきのままの人間です。』(ユダの手紙1章18節~19節)私たちが日々御霊に導かれて歩んでいるかを確信するためには、御霊がどのように働かれるのかを理解することが必要です。『御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。』(ヨハネ書16章14節)御霊に導かれ歩む者は、― 主のために生きたい― 主のために捧げたい― 主のために仕えたいと心から思うようになります。これが御霊の働きです。そしてこの働きがイエス様の栄光を現していくのです。私たちは、日々ここに焦点を当てて歩んでいくことが大切です。② 昼に眠っている者たち『彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えています。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたと一緒に宴席に連なる時に自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。』(2章13節)『わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなけれがなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。』(ヨハネ書9章4節~5節)神様は、ご自分の宣教の時を“昼の時”と定められました。私たちは、神の素晴らしい御業を昼の間に行うように召されています。偽教師たちも“昼の人”として召された人たちでしたが、その使命を忘れて自分の楽しみだけを追求し、昼間から飲み騒いでいました。旧約の時代、神様は不従順で不敬虔な人々に対して疫病や試練をお与えになり、それを通して民の目は開かれていきました。コロナウィルスによる不安が世界中に蔓延している今日、私たちの霊的な目は開かれているでしょうか。神様が与えてくださっている使命をしっかりと目を覚まして受け取っているでしょうか。今一度確認していきましょう。今日参照している箇所に、“バラム”という名前が出てきます。『その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂った振る舞いを阻んだのです。』(2章14節~16節)バラムは、民数記22章に登場します。バラムは、神の声を聞く預言者です。かねがねイスラエルの噂を耳にしていて「次は自分たちの国が攻撃を受けるかもしれない」という恐れの気持ちから、モアブの国の王であるバラクはバラムに「イスラエルを呪って欲しい」と頼みます。バラムは神の御声に聞き従い、一度はバラクの申し出を断ります。しかし再びバラクからの使いが訪れた時、彼らはバラクに“あなたを手厚くもてなします”と言い、バラクの中に欲の心が芽生えます。彼が神の言葉を求めた時、神様はバラムに「あなたはただ、わたしがあなたに告げる事だけを行え」という条件を付けて、バラクからの使者とともに行かせます。バラムは、神の御声を聞いていながら自分の欲が先立ち、それが神の怒りを燃え上がらせます。バラムを乗せたロバは、抜き身の剣を持った主の使いが道に立っているのを見ました。そして道から反れたり石垣にバラムの足を押し付けたりしました。その都度バラムはロバを杖で打ちます。そして主がロバの口を開かれ、ロバがバラムに語り始めます。そうして神様はバラムの目の覆いを取り除かれ、バラムはそこに立つ主の使いの姿を見るのです。『そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたは、あなたのロバを三度も打ったのか。敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ。ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を巡らしたのだ。もしかしてわたしから身を巡らしていなかったなら、わたしは今はもう、あなたを殺しており、ろばを生かしておいたことだろう。」』(民数記22章31節~33節)そしてバラムはやっと、自分が罪を犯していたことに気付くのです。『私は罪を犯しました。私はあなたが私をとどめようと道に立ちふさがっておられたのを知りませんでした。』(34節)“犯しました”という部分は、“犯していました”と書く聖書もあります。バラムは、心の中で“自分は間違ったことをしている”と気付いていましたが、周りの誰にも気づかれていないことを良いことに、自分の行動を改めようとはしませんでした。やがて、主の御使いが彼の目を開き、神に促されて自分が不信仰、不真実の罪を犯して続けていたという事がはっきりとわかったのです。私たちにも、「神様が私たちの目を開かれる瞬間」というものが必ずあります。ルカ書24章を見てください。復活したイエス様が、エマオという村に行く道を歩く二人の弟子と出会います。弟子たちは、この方がイエス様であるという事に気付きません。そして夕刻になり、彼らに食事に招かれたイエス様は、パンを取って祝福しそれを裂きました。その時、弟子たちの目がやっと開かれ、この方がイエス様であるということに気付いたのです。本日は、礼拝の最後に聖餐式を行います。聖餐式は、私たち一人一人の霊的な目が開かれていく時です。イエス様の十字架での尊い犠牲を覚え、私たちが「昼の人」として召されていることと、主の使命に生きることを求められていることを、今一度深く考えましょう。『その翌日、イスラエル人の全会衆は、モーセとアロンに向かってつぶやいて言った。「あなたがたは主の民を殺した。」会衆が集まってモーセとアロンに逆らったとき、ふたりが会見の天幕のほうを振り向くと、見よ、雲がそれをおおい、主の栄光が現れた。モーセとアロンが会見の天幕の前に行くと、主はモーセに告げて仰せられた。「あなたがたはこの会衆から立ち去れ。わたしがこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼすことができるように。」ふたりはひれ伏した。モーセはアロンに言った。「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らの贖いをしなさい。主の前から激しい怒りが出て来て、神罰がもう始まったから。」アロンは、モーセが命じたように、火皿を取って集会の真ん中に走って行ったが、見よ、神罰はすでに民のうちに始まっていた。そこで彼は香をたいて、民の贖いをした。彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。コラの事件で死んだ者とは別に、この神罰で死んだ者は、一万四千七百人になった。こうして、アロンは会見の天幕の入口のモーセのところへ帰った。神罰はやんだ。』(民数記16章41節~50節)会衆の度重なる反逆を見て、神は裁きを下されることを決定されます。そしてモーセとアロンに「会衆から立ち去れ」と告げられます。彼らはまず神の御前にひれ伏し「昼の人」として使命を果たすべく、神と民の間に入ってとりなしました。神の裁きは始まっていましたが、彼らは集会の真ん中で祈りの香をたいて、民のための贖いを行いました。すると神の裁きは収まったのです。“祈りの香”は出エジプト記時代、神と人とのとりなしのために、日々朝と夜に上げられていたと記されています。私たちも、神と民の真ん中に立ってとりなす者となっていきましょう。そして「昼の人」としての使命を果たしていきましょう。主にあって皆様の祝福と平安をお祈りいたします。

2020年4月 5日 バイリンガル礼拝

ハレルヤ!

主の素晴らしい御名をほめたたえます。本日の礼拝は牧師宅からのインターネット配信で行われました。賛美リードならびに司会は、榎いずみ先生がご担当くださいました。榎家の子ども達が大きな声で主を賛美する姿にとても励まされます。今朝も神にある兄弟姉妹が、主の御言葉を日本語と英語で聞き、主を礼拝する恵みに与れたことを感謝いたします。

来週の礼拝では聖餐式を行います。各ご家庭で準備を整えて共に聖餐に与っていきましょう。

本日の礼拝メッセージは、ペテロの手紙第二より榎先生が御言葉を取り次いでくださいました。まず最初に、私たちは以下の聖書箇所を拝読いたしました。

『また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗いところを照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。それには何よりも次の事を知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。』(第二ペテロ 1章19節~21節)

先週の礼拝で私たちはペテロの証しに触れ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネが“ヘルモン山で、キリストの威光の目撃者となった”ように、私たち一人一人も同じ目撃者になっていくという課題を受け取りました。「証し」というものが、単なる出来事を現わすという事だけに留まるのではなく、信仰と御言葉が結び合わされたときに、私たち自身が証し(地の塩、世の光 ― マタイ書5章)となっていく事を学びました。

イエス様が仰った言葉は、“(このように)なりなさい”ではなく、『あなたがたは地の塩である(マタイ書5章13節)/あなたがたは世の光である(14節)』です。このことをもう一度覚えましょう。

私たちはともすると、無いもの/失ってしまったものに対して心を奪われ、不平不満や信仰を揺るがされる部分に直面することがあります。しかし私たちが目に留めなけれがいけないのは、神様が私たちに何を与えてくださっているのかということです。

マタイ書15節に書かれいる“4000人の給食の奇跡”を思い出してください。彼らについて来た大勢の人々に「食料を与えるように」とイエス様に指示された弟子たちは、手元にあるたった7つのパンと少しの魚を見て「どうしてこれだけのもので、彼らに食べさせることができるでしょうか」と不平を口にしました。その時、イエス様はどうされましたか。

『それから、七つのパンと魚とを取り、感謝を捧げてからそれを裂き、弟子たちに与えられた。そして弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。』

(マタイ書15章36節~37節)

私たちは、失ってしまったものではなく、今日この瞬間に与えられているものに目を留めましょう。

今日参照している御言葉で、ペテロは「さらに確かな預言のみことば(19節)」と強調しています。原文ではこの“さらに”という部分が、“最上級に確かである”という言葉が使われています。つまり、神の御言葉はこの地上において、何にも比べるものが無いほど確かなものであるということです。

神は、その御言葉を持って全てを創造され、全てをその御手で保っておられます。この確信が私たちに与えられています。

『御子は、神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。』(へブル書1章3節)

それでは、聖書の語る“確かなこと”とはどのような意味でしょうか。19節をリビング・バイブル訳で確認すると、このように書かれています。

『こうして私は、預言のことばが現実となるのを目のあたりにしました。』

聖書に書かれている預言の言葉は、旧約、新約共に“キリストについての預言”であり、これは2000年前に実現されました。これこそが、聖書の語る“確かさ”です。

『主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています。』

(詩編119編89節)

神の御言葉の確かさは、預言の実現によって証明されています。私たちは日々いろいろなメディアで流し続けられている情報や報道の内容に一喜一憂し、あるいは人を裁いたり、不満をぶつけたいような思いに駆られることがあります。そのような時、私たちはどの様に対処したらよいのでしょうか。私たちは、神の御言葉の確かさを知っている者なのですから、“天のみこころが、この地になるように”と祈る者となっていきましょう。

『夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗いところを照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。』(19節-後半)

神の御言葉は、暗いところを照らします。明けの明星なるイエス・キリストが再び来られるまで、私たちには暗闇を照らす神の御言葉が必要となります。

罪の本質は、神を神としないという自己中心の思いです。救いに与って後も、この罪の性質というものが私たちの中に残っていて、不信感、諦め、また疑いを心に抱かせようとします。

サタンが人類に初めて誘惑を投げかけるために用いた言葉は、こうです。

「園の、どんな木からも食べてはならない、と神は、本当に言われたのですか。」

(創世記3章1節)

サタンは、私たちの“神の言葉に対する信頼”に対して、巧妙に揺さぶりをかけたのです。これがサタンの試みの原則です。サタンは、神の側からの“人間に対する愛”が変わらない事(=ここには手出しをすることが出来ないこと)をよく知っています。

『たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かないとあなたをあわれむ主は仰せられる。』(イザヤ書54章10節)

しかし、私たちからの神への愛と真実さに対しては、揺さぶることができるという事をサタンは知っているのです。不信仰や疑い、他人に対する非難や中傷といったものは、神から来るものではありません。私たちが神の御前に静まり礼拝を捧げる時、私たちの心には神からの平安が与えられます。サタンの攻撃は決して緩まることはありません。とするならば、私たちが神の確かな御言葉に立ち、聖書を信じ、主への信頼を更に深めていくことがとても大切です。

『しかし、主は「わたしの恵みは、あなたには十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。』(第二コリント12章9節)

私たち一人一人は弱いものです。しかし、それをそのままにしておいてはいけません。この弱さを、決して言い訳や理由とするのではなく、“神様、私の弱さを、あなたが働かれる機会として用いてください”と祈っていきましょう。

『それには何よりも次の事を知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。』(20節)

この部分を、キングジェームス版の聖書で確認してみましょう。

“Knowing this first, that no prophecy of the scripture is of any private interpretation.”(KJV – 2 Peter 1:20)

直訳すると、「聖書の言葉は、いかなる預言者の個人的な解釈によって書かれていない」ということになります。

1600年という年月をかけて、40名に及ぶ人々の手によって書かれた聖書ですが、その御言葉の出どころ(出典元)は、預言者ではなく神であるということを理解しましょう。この御言葉の確信に迫る時、私たちの信仰はより高められて行きます。

『なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。』(21節)

ここに書かれている“動かされた”という言葉ですが、これは「運ばれた(チェーン式引照聖書)」と解釈できます。また同じ言葉が、使徒行伝27章で“船が風によって動かされた”という部分に用いられています。

聖書の時代にあって、船は風に対しては無力でした。船は風の力に任せ、風に流されるままに進んで行きます。主導権を握っているのは、風です。ギリシャ語において、風は“御霊(聖霊)”を象徴しています。預言者たちは、風(御霊)に導かれて神の御言葉を書きしるしたのです。ですから、私たちはあらためて、聖書の確かさを認識できるのです。

『聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。』(第二テモテ3章16節)

神の完全な御言葉が、不完全な私たちを通して現わされていきます。ここに神のご配慮を見ることができます。神は、“十字架”という私たちが理解できる形を通して、その御愛の確かさを示してくださいました。御言葉の確かさを知る時、私たちに対する神の愛の確かさをも知ることができるのです。

暗澹とした今の世にあって、私たち信仰者一人一人に求められている姿勢はどの様なものでしょうか。御言葉の確かさに立つとき、神が私たちに求められている事は何でしょうか。

『イッサカル族から、時を悟り、イスラエルが何をなすべきかを知っている彼らのかしら二百人、彼らの同胞はみな、彼らの命令に従った。』(第一歴代誌12章32節)

12部族の中でも少数民族であるイッサカル族は、イスラエルがするべきことを良く理解し、いち早くダビデに従い、民族の救いをもたらしました。

私たちにとって今のこの状況はどの様なものでしょうか。日々流れて来る「コロナ報道」に、必要以上に自分の目や心を奪われないようにして、私たちが今何に対して目を向け、何を心に留めていくべきかを考えて行きましょう。

19節においてペテロが語る“暗やみ”とは、社会、経済、政治などの目に見える部分の暗やみ以上に、人々の生活が、神の基準である確かな御言葉から反れて、人々の個人的な価値観や道徳、また生き方にフォーカスしていることを指しています。

今の時代は、全てを造られた神への反抗と不従順が満ちる時です。しかしそれは同時に、神の救いと御恵みが表される時でもあります。そのことをしっかりと覚え、時を知り、聖書を深く信頼していきましょう。御言葉の確かさに留まり、日々神により頼み、祈りましょう。

主にあって皆様の祝福と平安をお祈りいたします。

2020年3月29日 バイリンガル礼拝

ハレルヤ!

主の素晴らしい御名をほめたたえます。先週に引き続き、本日の礼拝は牧師宅からのインターネット配信という形で行われました。賛美リードならびに司会は、榎いずみ先生がご担当くださり、神にある兄弟姉妹がインターネットを介してそれぞれの場所において、主の御言葉を日本語と英語で聞き、主を礼拝する恵みに与れたことを感謝いたします。

本日の礼拝メッセージは、ペテロの手紙第二より榎先生が御言葉を取り次いでくださいました。まず最初に、私たちは以下の聖書箇所を拝読いたしました。

『私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子。わたしの喜ぶ者である。」私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。』(第二ペテロ 1章16節~18節)

ペテロは、キリストの復活と再臨を否定する偽教師たちが諸教会の中に混ざり込んでその影響力を強めていくことに対して、信徒たちに警鐘を鳴らしていました。小アジアに離散し大きな試練に直面している兄弟姉妹たちに希望のメッセージを送るために書かれたこの手紙の中で、ペテロは自分の証しを記しているのが、今日参照している箇所です。

ペテロは“これは作り話ではなく、私が実際に目撃したことであり、証人である”と強調しています。ペテロは、自分自身が見たこと/味わったことを、試練の中にある兄弟姉妹たちに伝えているのです。

パウロも同様の事を、ガラテヤの人々に宛てた手紙の中に記しています。

『私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。』(ガラテヤ書 1章12節)

このように、キリストを信じるクリスチャンは、“神から受けた者を伝える”という立場におかれているという事を今朝覚えていきましょう。

今日参照している聖書箇所(第二ペテロ 1章16節~18節)で、注目すべき点があります。ペテロは、主語として“私たち”という言葉を何度も用いているということです。これにより、ここに記されている証言はペテロ一人の事ではなく、ヤコブ、ヨハネらを含めた複数の人々の証しでもあるという事がわかります。

18節にある“聖なる山”は、ヘルモン山(変貌山)の事です。ペテロとヤコブとヨハネは、イエス様に連れられてこの山に登ります。そこで3人は、モーセとエリアがイエス様と話している場面を目撃します。(マタイ書17章、マルコ書9章、ルカ書9章)

12弟子の中のキーパーソンともいえるこの三人(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)を、イエス様ははご自身の宣教の重要な場面 ―ヤイロの娘の癒し、ヘルモン山での三者会談、など― の証人としてに立ち会わせておられました。これは、“複数の証言によってのみ、物事は立証されなければならない”というユダヤの教えに倣うものです。

『どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。』(申命記19章15節)

イエス様が訴えらた時、律法学者たちは証人をかき集めました。しかし、いずれの証言も辻褄が合わないので、本来ならば不起訴処分になるべきでした。しかし彼らの妬みのゆえに、イエス様は理の通らない罪に定められたのです。

ですから、ペテロが“私”ではなく“私たちの証言”として記しているこの部分は、紛れもない真実であるとわかります。

それでは本日は、この聖書箇所からペテロが何を知り、何を伝えたかったのかという事を2つのポイントから学んで行きましょう。

① 主イエス・キリストの力

『主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべての事を私たちに与えるからです。』(第二ペテロ 1章3節)

神の力によって、私たちにはいのちと敬虔が与えられていると記されています。この“いのち”とは、罪がもたらす死からの復活の力のことです。神を信じる者には、罪に対して勝利する力が与えられているのです。

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし』

(へブル書 2章14節)

“敬虔”とは、キリストの力によって私たちに与えられる、神に対する私たちの態度の事です。ペテロは自分がキリストの一番弟子であるという自分のプライドのゆえに、様々な罪や過ちを犯しました。自分が持つ熱い思いや希望だけでは、本当にイエス様に従っていくことはできません。主の前に自らを低くする姿勢が求められます。私たちと、私たちの信仰を支えているのは、キリストの力だからです。

② 主イエス・キリストの来臨

ペテロは、まだ自分の目で見ていない/体験していない事柄の「目撃者」であると証言しています。

『人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおののその行いに応じて報いをします。』(マタイ書 16章27節)

十字架での死、そして三日後の復活について示されたペテロは、分もわきまえずにイエス様をいさめ始めます。そしてペテロを一喝した後、イエス様は弟子たちのこの御言葉を語られます。この主の語りかけが、ペテロの信仰に結びついて、彼の“見ていない事柄の目撃者である”という証言に至らしめるのです。

もし、自ら体験/経験したことだけが私たちの信仰生活の証しであるとするなら、私たちの信仰は主の御言葉に結び付けられていないこととなります。私たちは日々、主の御言葉を慕い求め、御言葉に聞き従う者となっていきましょう。まだ見ぬ希望であっても、私たちは御言葉を土台として私たちの信仰をより強く育んでいきましょう。

ペテロ、ヤコブ、そしてヨハネが目撃した“ヘルモン山での三者会談”では、いったいどのようなことが話されたのでしょうか。それはイエス様の最期についてのことでした。

『イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期について一緒に話していたのである。』

(ルカ書 9章31節)

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

(ヨハネ書 3章16節)

私たちもこの時代にあって、主イエス・キリストの目撃者となっていきましょう。

『このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。― 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。』(第一ヨハネ 1章2節~3節)

神がペテロを用いられたのは、彼が完全な者であったからではありません。神の証しは、不完全な者を通してなされます。それは神の栄光が現わされるためです。

まだキリストを信じておられない方は、まずキリストの力を知り、それを信じるところから始めましょう。すでに信仰を持っておられる方は、“私たちはキリストの証言者である”という事を宣言していきましょう。

主にあって皆様が大いに祝福され、心の平安と体の健康が守られますようにお祈りいたします。